スタッフブログ

ピンチはチャンス!大阪の株式会社ナオミ、駒井亨衣社長の知られざる、波乱万丈ヒストリー!

チョコレートソースや、キャラメルソース、などを

手作業より簡単に、ビンやボトルに小分け出来る機械を取り扱っています。

大阪の充填機メーカー 株式会社ナオミです!





今日は、駒井亨衣社長の知られざる

波乱万丈ヒストリーを、ご紹介いたします!



大阪箕面市にある、半自動充填機メーカーナオミです。プリン・ゼリー・つゆといった液体や、マヨネーズやミートソース・ミンチ肉・ひき肉・キャラメルソースといった粘体、小麦粉・米・コーヒー粉・お好み焼き粉・カレー粉といった粉体などの様々な食品の仕様に合わせた機械を取り扱っております。手作業より、効率がよく、機械の操作も簡単です。















駒井亨衣社長は、なんといっても明るくて、元気ですよね!


あり余るパワーとエネルギーを、

いつもおすそ分け  していただいています。


しかし、そんな駒井亨衣社長も、

小さい時から、今のような性格では、無かったそうです・・・






4つの、人生のターニングポイントを経て、

今の駒井亨衣社長が、作られたのだとか・・・




それを今回、インタビュー形式で、

駒井亨衣社長に お話していただきました!





本邦初公開!   
みなさん・・・必見です。

 





1958年、5月3日。

駒井亨衣社長は、兵庫県に生まれました。


小さい頃の、駒井亨衣社長は、

いたずらっこで、好奇心旺盛な おてんば娘。


自分を 試してみたくなる性格で、
未知の世界へ 足を入れることに、一番ワクワクしていたのだとか。



後悔するくらいなら、やってみて 失敗するほうがマシ!

「あかん!」と言われた事を、やってみたくなる性格は

この時から、変わりません。

 

いたずらばかりするので、よく両親に怒られたそうです・・・(笑)



この頃からの、駒井亨衣社長の夢は・・・


キャビン・アテンダント!略して、CA!




お父様が、お仕事の関係で

よく、アフリカや、南米、ペルーなんかに足を運んでいたらしく、

飛行機に乗って、世界中を飛び回るCAに、

憧れをいだいていたのだとか・・・






小学校に入学すると、CAになりたいという夢を抱きながらも、

絵を描いたり、本を読んだりと、

芸術的なことが、大好きでなっていきました。





本の中でも、大好きだった本は・・・『伝記』




キュリー夫人や、ヘレン・ケラーなんかの

海外の偉人の、伝記を読んで(読んでいる本も 海外志向!)

人のために動き、人の役に立つ素晴らしさに

いつも、心を打たれたのだとか。





駒井亨衣社長の信念である、

「人のために動く、すばらしさ」というのは

この頃に、構築されたのかもしれませんね。





ずっと、CAになりたかったものの、


小学校高学年の時、これ以上身長が伸びないという

現実を目の前にし、CAの夢を断念。





そののち・・・

 



絵が好きだったことや、芸大や美大出身の親戚が

多かったということもあり、

 

「美大に行きたい!」という夢に変わっていきます。





(駒井亨衣社長は、株式会社ナオミの

マスコットキャラクター「ナオミちゃん」を

デザインしてしまうほどの、腕前なんですよ~!)


【 駒井亨衣社長の、実際のデザイン画は、こちら 】

 

大阪箕面市にある、半自動充填機メーカーナオミです。プリン・ゼリー・つゆといった液体や、マヨネーズやミートソース・ミンチ肉・ひき肉・キャラメルソースといった粘体、小麦粉・米・コーヒー粉・お好み焼き粉・カレー粉といった粉体などの様々な食品の仕様に合わせた機械を取り扱っております。手作業より、効率がよく、機械の操作も簡単です。














( ↑ ナオミちゃん )






また、中学生~高校生の頃、

駒井亨衣社長は、絵だけでなく、

勉強も、ほったらかしで、歌やギターにも没頭していきます。





この時代は、吉田拓郎や、井上陽水などの

フォークソング全盛期の時代。


駒井亨衣社長も、

ライブをしたり、作曲したり、コンテストに出たり・・・





ギターばかり弾いて、両親に散々怒られたそうですが、

友達と、歌って奏でる充実した日々を、過ごしていたそうです。





(一度、駒井亨衣社長の歌声を、お聞きしたことが

あるのですが、目玉が飛び出るくらい上手だったんです。

学生時代の、この日々が、理由だったんですね!)





自分の好きなことには、熱中しながらも、

中学校からの夢であった、

「京都芸大」 へ進学するために、猛勉強。



しかし結果は・・・・



不合格。




これが、駒井亨衣社長

人生1つ目の、ターニングポイントです。




芸大には、行きたかったものの、

私立の芸大に行くほど、経済的な余裕は無かったので、

駒井亨衣社長は、両親へ相談なしに、

社会人になることを決意。



高校卒業後、『ダイキン工業』に入社します。

そこでの仕事というと・・・事務 と 雑用。




現在、株式会社ナオミでは、

「雑用が、きちんとできない人は

どんな仕事をしても、きちんとできない」と言われているのですが、



この頃の駒井社長は、

今では、信じられないですが、


『なんで、私が こんな仕事しているんやろ。


不平不満を持ちながら、仕事をしていたそうです。

芸大に行きたかった未練も、あったのだとか。





そんな風に、嫌々 仕事を続けながらも、


唯一の楽しみは、やはり音楽。





毎日、定時で仕事を終えると、

ライブ会場に、直行していたそうです。


ライブを見に行くために、

仕事をしていたと おっしゃっていました。(笑)





そんなこんなで、

ダイキン工業に入社してから、3年・・・




仕事も面白くないし、

そろそろ仕事を辞めようかな~と 考えていた時・・・





結婚の話が舞い込みます。





それが、いまの ご主人だそうです。

そして、結婚と同時に、ダイキン工業を退社。



駒井亨衣社長は、専業主婦の道を歩みます。





専業主婦の駒井亨衣社長は というと、

ごはんも、掃除も、子育ても

完璧にこなす、絵に描いたような 「お母さん」




今では、あまり想像がつきませんが、

「いい母親で、なければならない」と思い、

毎日、必死に子育てしていたそうです・・・



(駒井亨衣社長は、何でも、手際が速いんです。

それは、この頃に 培った力だったんですね!)





そんな中、駒井亨衣社長が、30歳の時・・・

突然、病魔が襲います






重い喘息を、発症したんです。






運動なんて、もってのほか。

歩くだけで、苦しくて、

一年のうち、10ヶ月は、苦しい生活を送っていたのだとか。





この時、自分の体に自信が無く、

働きたいという感情も、無かったといいます。



そんな日常を、過ごし、

子どもも、ようやく手が離れたな~と思っていた ある日・・・





友達から、

「3時間だけ パートしてみない?」という誘いが。




体力には、自信が無かったそうですが、

小さい頃からの、駒井亨衣精神。




『やってみなきゃ、わからへんやん!』ということで、

1日3時間、短期のパートとして 果物屋で働くことになりました。







そうすると、意外や意外。



パートで働いている時は、ほとんど咳が出ず、

体を動かしているほうが、楽になれる自分がいたのだとか。




新たな自分の発見。そして、働くことの楽しさを感じ、

果物屋のパートが終わった後、

3年間、乾物屋でパートをするようになります。



果物屋の頃は、1日3時間でしたが、

乾物屋では、1日6時間~8時間ほど

働いていたそうです。






この、乾物屋での出会いが

駒井亨衣社長の人生に、

大きな変化をもたらします。






その乾物屋には、乾物を運んできてくれる

運送会社の兄ちゃんが、よく来ていたそうなのですが、


その兄ちゃん達が、見た目は ものすごくガラが悪いけど

中身が、とっても温かい方ばかり だったそうです。


本音で話すというか、人間味があるというか・・・

その人柄が、すごく魅力的に思えたとか。



駒井亨衣社長は、このときに初めて

人と人の温かさに気付きます。




ダイキン工業にいた時は、研究の部署にいたこともあり、

働く人同士が、あまりコミュニケーションを取らない部署だったそうです。




今までの人生、閉鎖的な空間にいたこともあり、

人は、いろいろな考え方を持っているということに

初めて気付き、カルチャーショックを受けました。



と同時に、「私は、周りを気にしすぎていた。

もっと自分の事を、言っていいんだ。」ということを

教えてもらったそうです。



まさに、2つ目の人生のターニングポイントですね。





その後、乾物屋が事業を畳むということになり、退職。





そのタイミングで、駒井亨衣社長のお父様が、やり始めた

株式会社ナオミが、忙しくなってきたので、

事務のパートで来ないかと声をかけられ、


1995年に、株式会社ナオミへ入社します。




株式会社ナオミで、事務のパートとして働き出してから、

 

2年後・・・





駒井亨衣社長の、2人の お子さんが、不登校になりました。

このとき、駒井亨衣社長は、相当辛かったと思います。




なぜ、子どもが学校に行きたくないのか わからない。

母親として、どうしたらよいのか わからない。

どうやって、子どもと、コミュニケーションを取ればよいのか。

自分の子どもが不登校だと、他のお母さんにバレたらどうしよう。






いろんなことが、頭の中をぐるぐる回っていたそうです。



沢山の本を読み、講演会などにも参加して、

不登校の子どもについて、沢山勉強したそうですが、



駒井亨衣社長に、救いの手を差し伸べてくれたのが

「不登校の子どもを持つ、お母さんの会」でした。




その会に、初めて参加した時、あるお母さんに・・・

「駒井さん、そんな簡単に 子どもは学校に行かないよ。」と

言われたのが、とても衝撃だったそうです。



でも、そこで 同じ境遇の お母さんと話していく内に、 

事実を受け入れること・受け止めることの大切さを、

駒井亨衣社長は、段々と学んでいきました。





お母さんの会があったことによって、

母親である、駒井亨衣社長は 孤独ではありませんでした。


「子どもが、生きていてくれる。それだけでいいんや。」

思えるようになったんだとか。





この不登校の経験を通して、

駒井亨衣社長自身が、強くなったと おっしゃっていました。

2人の子どもに、生き方を変えてもらった・・・と。





これが、駒井亨衣社長の

3つ目の人生のターニングポイントです。




家庭では、そんな事情がありながらも、

引き続き、株式会社ナオミで、パートとして働いていました。


しかし、株式会社ナオミでも・・・ある問題が。





お父様の「ワンマン経営」です。



そんな父親を見て、駒井亨衣社長は、

「父の経営方針では、会社は絶対に良くならない。

私が、経営者になって、ナオミを良い会社にする!」

という想いが、ふつふつと湧いてきます。





その後、駒井亨衣社長は、お父様の後を引き継ぎ、

株式会社ナオミの経営者として、0からのスタート。



お父様に反対され、否定され、

くじけそうになった時も、あったそうですが、



「どうしても、いい会社を作る!」

「みんなが幸せになる会社を作る!」

その情熱だけは、溢れるほどありました。



しかし、その時は、経営者としての

経営する力量や技術は全くありませんでした。




自分はもう無理かもしれないと

あきらめかけていた時、



今ナオミを引っ張ってくれている、

川田専務が、入社してきたのです。



これが、駒井亨衣社長

4つ目のターニングポイントです。



川田専務は、ナオミに入社する前、

長い間、社長業をしておられたので、



経営のノウハウ、売れる仕組み作り、戦略、人の教育など


駒井亨衣社長が学びたいことを、全て経験していました。






そこから、駒井亨衣社長と、川田専務 

二人三脚で、会社を作り上げていきます。






そして、駒井亨衣社長が、立派な経営者となるように

川田専務が指導していきます。


リーダーとして大切なことは3つ。

「ぶれないこと」「素直なこと」「信用できること」



駒井亨衣社長の人生の指導者として、

川田専務は、駒井亨衣社長の経営者としての素質を、

認め、伸ばしてくれたそうです。

 





京都にある町屋。(http://hataraku703.com/)大阪の半自動充填機メーカー(https://www.naomi.co.jp/)ナオミの社長である、駒井社長が代表を務める。高校生や大学生を対象とした駒井による「出前授業」、どんなことでも気軽に語り合える「まぁ、おあがり」、経営者と語らう「社長と話そう」そして各コンテンツによる「イベント」を行い、悩める若者を救う活動を行っている。















【経営者として、一番嬉しいことは?】


 『人が成長していくのを、感じる時』




人は、人によってしか変われない。

人と人とが関わって、その人が変化したことで、

幸せになったり、生きることが楽になったりしていくのを

見れた時が、本当に幸せだそうです。




【経営者として、一番辛かったことは?】




『父親との関係。』



駒井亨衣社長が、経営者になることを

お父様は、強く反対されていたそう。


他人なら、距離を置けば何とかなるものの、

血のつながった父親から、

約束を破られたり、否定されたり、裏切られたりされたことが、

一番辛かった とおっしゃっていました。





でも、そんな辛い時。

川田専務が、いつも言ってくれた言葉があります。






「このことで、誰か死にますか?死にません。

じゃあ、もうよろしいですやん。」




この言葉を聞くと、「あ、確かにそうやな。」と思え、

気持ちを切り替えることが、出来たそうです。



【今後、株式会社ナオミを どうしていきたいですか?】



ここで、働けてよかった。

自分の子どもを、株式会社ナオミで働かせたい。と思え、

ナオミで働けたことに、誇りを持てるような会社にすること。

そして、株式会社ナオミを、日本になくては、ならない会社にすること。




あったかさの中に、本気や一生懸命さがあり、

社員が安心して、長く働ける会社を作りたいんです。


会社を大きくすることが、目標では ありません。

「ナオミの社員が幸せになる会社にすること。」が、

最大の目的だとおっしゃっていました。




 【ブログを読んでくださっている皆さんに、伝えたいことは?】


「生きるとは?」ということを、みなさんに問いかけたいです。

「生きるとは?」という問いに、みなさんなら何と答えますか?

私は、その答えは、アインシュタインが言った言葉に、

すべての意味が、含まれていると思います。


「誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある  

      — アルベルト・アインシュタイン」



人と関わることで、喜びや感動が生まれるし、

人のためにやったことは、全て自分に返ってくる。

そこから、自分を知ることが出来るんです。


人と関わる時は、自分が出来ることを

全力で、一生懸命やる。


そうすれば、自分も相手も

豊かで幸せになれると 私は思っています。


そういう人が、もっともっと増えればいいなと思い、

私は、ブログを読んで下さっている みなさんに

「生きるとは、どうゆうことか」ということを、

一度 考えていただけたらな と思います。』と。




私を含め、多くの人が

人のために生きることは、自分を犠牲にすることだと

考えている人が多いのでは ないでしょうか?






でも、それは違うみたいです。

人の役に立つということは、自分が幸せになるためなんだ

ということを、駒井亨衣社長に、教えていただきました。






最後に・・・・

【ピンチは、チャンス!】

『無駄なことは、一つも無い。

今起こっていることは、全て必然なんです。

ピンチな時こそ、自分が強くなり、成長できるチャンス!


この言葉を合言葉に、みなさんも

毎日を笑顔で、過ごしていってほしいな~と思います。』






===============================

インタビューを終えて、

私は・・・正直、大変驚きました。


いろんな紆余曲折があったからこそ、

エネルギーに満ち溢れている、今の駒井亨衣社長がいるんです。

「人は、変われる」

それを、駒井亨衣社長から、教えていただきました。





────────────────────────────────────────

 

 【株式会社ナオミ 公式ページ

【株式会社ナオミ 公式facebookページ】

 

 【株式会社ナオミ 採用サイト ナオミビト】

 【駒井亨衣社長がお届けする、心があったかくなるメールマガジン】

 

 【若者が集まる!しゃべり場!】

 学び舎 傍楽(京都 町家)公式ページ

 学び舎    傍楽 (京都 町家) facobookページ

 

〒562-0031  大阪府箕面市小野原東1-2-83

 TEL 072-730-2703 FAX 072-730-2777

 

  ──────────────────────────────────────

コメントを残す

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

post date*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)