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代表取締役・立花宗茂

立花宗茂。

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一般的には知名度は高くない人物かもしれませんが、
戦国最強の人に挙げる人も少なくない武将・大名です。

この武将に学ぶ点は現代人にも大変多くあると思うので、
ご紹介しようと思います。


豊臣秀吉をして

「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」

忠義も強さも九州一である、と
九州で有名な島津一族の名だたる武将がいる中で褒めた称えたほどで、
元々使えていた大友家からヘッドハンティングされ、
器量に惚れこんだ秀吉が直接家臣にしたほど。


あるときには1日に13回戦闘し、7つの城を落とすというとんでもない手柄をたて、
そして秀吉が元主君の大友義統よりも上の官位に任じようとした際には
「元々使えていた大友家に対する仁義に反する」として数年固辞しています。


それらの豊臣家の恩義から関ヶ原の際にも西軍で参戦しています。

家康はこの際、宗茂に50万石の領地でスカウトしたといいますが、
宗茂は「一度、西軍につくと言った以上、今さら変えられない」と断りました。

これに家康は「戦国の世にあって、なんと律儀な男だ」と認めていたといわれます。
とはいえ、豊臣方についたことを見逃しては他に示しがつかないと
福岡柳川の領土を全没収されました。

この時も、
柳川の領民は

「殿様の為なら命も惜しくない!最後まで殿様と戦います」
と申し出たそうですが

「みんなを戦で無駄死にさせるわけにはいかない」
と城を明け渡し、領地を追われました。

 

これは会社で言えば倒産です。
さらに戦が無くなる事で侍という需要が無くなり
家臣たちは再雇用口もないわけです。


社長・宗茂は「新しい道を歩め」と家臣に別の生き方を進めます。
宗茂自身、今でいうニートになりました。


しかし、3年もの放浪生活の間も家臣は放浪を共にし、
浪人する宗茂を惜しみ、加藤清正や前田利長らが、
「ウチに就職してよ」とラブコールを送ったといいます。

かねてから、宗茂を高く評価していた家康は
ほとぼりの冷めた3年後、5,000石で将軍の親衛隊長ともいうべき職で召抱えます。
その後まもなく、今の青森で大名として領地を与えられます。この時1.5万石
最終的には3.5万石まで加増を受けていることからも、
家康の評価も並々ならないものであることがわかります。


大坂冬の陣、夏の陣でも再び豊臣方に着くことを恐れた家康は、
必死で説得したとも言われます。

そうして秀忠の参謀として参戦、
二代将軍となった秀忠は、大坂の陣の功績と
領土を失っても主従の交わりを忘れない宗茂と家臣の関係、
また多くの諸大名から慕われる人柄に感銘を受け、
20年という時を経て、柳川の領主として福岡に戻ります。
このときの石高11万石。


関ヶ原で西軍につき、領地を没収され
元の領地を取り戻した大名は立花宗茂、ただ1人。


今でいうなら、
ニート生活から3年後、
年俸4,000万円の取締役、そして8億円の社長となり、
最後はなんと年商80億円の社長に返り咲き!
(石高を現在の価値で換算)


生まれ育った地に戻り、大大名となり、
普通なら浮かれ呆けてしまうでしょうが、
宗茂は違います。

領主として館を建てることになった時、
ニート時代を支えてくれた部下に向かって言った言葉がこれ。

「屋敷は狭くつくってくれ。
 屋敷を広くしてしまったら
 浪人となったときも見捨てず、
 物乞いをしてまで支えてくれたお前たちと
 顔を合わす回数が減ってしまうし、心も離れてしまう。
 そんなことはしたくない。
 もうお前たちと離れたくないのだ。
 だから屋敷は狭くていい」

部下は宗茂の言葉を、涙を流しながら聞いたといいます。

 

立花宗茂のエピソードにはとにかく、その人物像の素晴らしさが伝わるものが多くあります。
裏表がなく、文武両道で、武将にも領民にも分け隔てなく接したといわれます。

あらゆる意味で「戦国最強」と言われるのもそのせいかもしれません。

後世、物語として創作されたものも多いとされますが、
悪い話ではなく、良い話ばかりが創られ語り継がれている事は
宗茂の人物像がそれだけ素晴らしいということかもしれません。

現代の経営者も宗茂に学ぶ点は多いと思いますよ。

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