中学二年生から神主に憧れ、六十歳になったら神職になろうと計画してきました。それが、結婚式・神前式のお手伝いをすることになり、予定より15年も早く神社庁より権正階と言う位を頂きました。私は、神道を宗教としてでなく、日本の美しい文化、生活習慣、作法と伝統として また日本人が自然と共存し、神を感じ感謝し、怖れそして祀り、生きていく美しさを世界に発信したい。
神社や神道を勉強したい一般の方に、一般の方の目線に立ち、ご紹介できる立場になりたいと思います。
普段の生活において、手を合わせ、感謝できる時間と空間を持つことが、人間としての成長につながり、良きご縁を頂けることだと思います。!
大阪・天満橋、東京・新宿にある結婚式場ブレスアスオール。
その東京を運営する株式会社BUAホールディングスの代表取締役 川辺徹です。
当式場はチャペル式の結婚式場をメインでお手伝いしてまいりましたが、近年、見直され徐々に増えてきている、
日本式の結婚式「和婚」に触れるうち、この素晴らしい伝統的な結婚式を絶やしてはならない、
それどころかより多くの方々に「和婚」の良さを知ってもらいたいと思うようになりました。
東京では品川神社、居木神社、芝大神宮、赤坂氷川神社、湯島天神、赤坂豊川稲荷などでの結婚式をお手伝いし、大阪では御霊神社や大阪城内にある豊国神社での撮影などもお手伝いしております。
そして平成20年、品川神社の宮司との出会いが転機となります。
「そんなに熱い思いがあるなら、神職になれば」
という宮司の言葉に触発され、平成23年に大阪國學院の受験。
平成25年4月卒業を迎え、45歳にして神職となりました。
このブログ、祝詞を通し多くの方々へ
自分の運命を決める仕事、友人、恋愛、等の縁を結ぶ想いをお届けできればと考えています。
12時40分 受付
13時より15時まで
JR浜松町、地下鉄大門駅近く、芝の増上寺横にある
芝東照宮において、
良縁祈願参拝 & 祝詞セミナーを行います
私は、祝詞担当となります。
是非、毎日の生活のほんの10分、祝詞をあげて
清らかな心を作る時間を持ちませんか?
そのための、入門講座を年4回行います。
お気軽にご参加ください!!
お待ちしております。
- ニュース
- 投稿日:2014/01/30
『心に太陽を持て』
屋上から、また家の中庭を望む
廊下から太陽に手を合わせた。
手を合わせた後、両手で輪を作り
、その輪の中から太陽を見た
その様にして、太陽のエネルギー
を身体全体で吸い込んだ事を
思い出す。
今も、朝日に向かい手を合わす。
『日拝』である。
日拝の後、心にゆとりがもてて、人に
パワーを分けることができる。
まさに、太陽のパワー
太陽は万物を照らし続けて、自らを強く
健やかに養い続けて、一日たりとも休まない。
母から頂いた、ドイツの詩人シェーザル・フライシュレイン氏の
詩 『心に太陽を持て』(訳:山本有三。)を披露する。
心に太陽を持て
あらしがふこうと ふぶきがこようと
天には黒くも 地には争いが絶えなかろうと
いつも 心に太陽を持て
唇に歌を持て
軽く ほがらかに 自分のつとめ 自分のくらしに
よしや苦労が絶えなかろうと
いつも 唇に歌を持て
苦しんでいる人 なやんでいる人には
こう はげましてやろう
「勇気を失うな
唇に歌を持て
心に太陽を持て」
今日も太陽のように、明るく元気にがんばろう!
- ニュース
- 投稿日:2014/01/29
曹洞宗の開祖で、坐禅の道元
著作である『正法眼蔵』から、特に
在家信徒への布教を念頭におき、
重要な点を抜粋したものに
、『修証義』(しゅしょう
ぎ)がある。
私の母方の実家が、曹洞宗でも
ありこの修証義に出会った。
この経本の中でも、人間、誰もが
人生は、一度きり!
大切に、感謝を持って
、思い切り生きよう!と
書いているように、私には思える
好きな部分を今日は、ご紹介した
い。お経ではあるが、「修身」が、
書いてある。
第一章の総序の部分の一部
生を明(あき)らめ死を明(あき)
らむるは仏家一大事の因縁なり、
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死
なし、但生死即ち涅槃(ねはん)と
心得て、生死として厭(いと)うべき
もなく、涅槃として欣(ねご)うべき
もなし(=歓ぶもなし)、この時初めて生死を離(はな)るる分あり、唯一
大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。
人身得ること難(かた)し、仏法値(お)うこと希(ま)れなり、今我等(われら)
宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたる
のみに非(あら)ず、遇(あ)い難き仏法に値(あ)い奉れり、生死の中の
善心(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生(しょう)なるべし、最勝の善身を
徒(いたずら)らにして露命(ろめい)を無常の風に任すこと勿(なか)れ。
無常憑(たの)み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に
私に非ず、命は光陰(こういん)に移されて暫(しばら)くも停(とど)め
難し、紅顔(こうがん)いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)
なし、熟観(つらつらかん)ずる所に往事(おうじ)の再び逢(お)うべからざる
多し、無常忽(たちま)ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝
(こくおうだいじんしんじつじゅうぼくさいしちんぽう)たすくる無し、
唯独(ただひと)り黄泉に趣(おもむ)くのみなり、己(おのれ)に随(したが)い
行くは只是れ善悪業等のみなり。
<現代語訳>
我々が生きているということは、どういうことか、死とはどういうことか、
その真実をはっきり見極めるのが仏教者として最も根本的問題であります。
生まれてから死ぬまで、我々は迷い苦しみのまっただ中に生きているよう
ですが、その生まれてから、死ぬまでの生きている現実の中にこそ仏
(覚ったひと)はいるのですから、迷い苦しむ生活としての生死はないのです。
ただこの生まれてきてから死ぬまでの現実そのものが、不生不滅の涅槃
(さとり)の境地と心得たらいいのであって、そうなると、嫌がり、嫌うべき生死
という迷いの生活もなく、願いを求めるべき涅槃(さとり)の境地というものも
ありません。こうなった時、はじめて生まれてから死ぬまで迷い苦しむ世界
から完全に縁が切れた生き方が自分のものになります。
生を明らかにし死を明らかにする、ただこれこそが一番大事な根本問題
であるということに徹底しなさい。
人間の身に生まれてくることは、非常に得難いことであり、その上、仏法
にめぐりあうことも滅多にないことです。我々は今、前世で行った善根の力
に助けられて、このように得難い人間の身に生まれてきたばかりでなく、滅多
にめぐりあえない仏法にもめぐりあわせていただいているのです。
生まれては死ぬ存在の中では、一番善(めぐま)れた生涯であり、最高に
すぐれた善(めぐま)れた身を無駄にして、露のようにはかないく消える命を
無常(死)の風の吹くに任せて終わらせてはなりません。
死(無常)というものは、いつやってくるか、予想もつかないものです。草叢
に宿る命のようなはかない命は、いつ、どこで消えるか全くわからないものです。
大体、自分のこの身体というものが、(因縁和合でできているもので)自分の
ものではありません。命はまた、光陰と共に先が短くなるもので、ちょっとの間
も引き止めておけるものではありません。少年の日の若さにあふれたあの顔は
どこへいってしまったのでしょう。探し求めようとしても、あとかたもありません。
よくよく観察してみると、過ぎ去ったことは、二度とめぐり逢えないことです。
死(無常)が突然やってきた時には、国王も大臣も、親しい友も従う部下も
妻子も財産も、手を貸してはくれるわけにはいかないのです。たった一人で
黄泉(あのよ)へ旅立つばかりです。どこまでも自分についてくるものといっては、
ただ自分が作った善行・悪行ばかりです。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/28
日本の結婚式衣装を変遷を写真で見る
写真で見てみようと、社内研修で、
弊社のカメラマンの講師先生が、
集めてくれた写真を見てみたい。
最初の写真は、江戸時代末期の
いわゆる、家で行った、『祝言』の
写真。
当時は、嫁を迎い入れる家での
結婚式。床の間に、氏神様や天照
大御神や出雲大社の掛け軸を
掛けて、両家親戚縁者を呼んでの
人前式+披露宴のような形の
結婚式。新郎は、紋付袴、新婦は
着物(白無垢や色打掛)に綿帽子
姿に、家族の結婚式で温かい。
明治時代において、江戸時代の家での結婚式
が残っていた時代に、明治33年5月10日に
皇太子であった大正天皇と九条節子姫が皇居内
の賢所(天照大御神を祀る御殿で、一般では神社にあたる場所)
でとりおこなわれたご婚儀に由来しています。
翌年にはこの皇室の婚儀を参考に現在の東京
大神宮が創設され、徐々に全国各地に普及して
いき、「挙式」と言う概念が日本人
に芽生える。
写真は、黒紋付きに、新婦は、黒の本引振袖、
そして文金高島田と角隠し。
やはり家の床の間に、神さまをお迎えしての
家での結婚式。
そして大正時代の写真を探して
みると、やはり、新郎は紋付袴に
新婦は、黒本引振袖に、徐々に
「祝言」と言う形から、「結婚式」
と言う祝い、セレモニーの形に
変化していっているのが、わかる。
呼ばれているゲストの衣装も
全て紋付羽織で日本の格調高
い結婚式の集合写真である。
昭和時代に移ると、今度は、
戦争の影響で、戦前、と戦後
の衣装は、変化してくる。新郎の
正装に、軍服が使われるように
なってくる。つまり、紋付袴の姿から
洋服へ変化する。
洋服に関しての正装のルールは、やはり
軍服から来ている。軍服のこのような長い
コート(フロックコート)が、新郎正装の原型
であり、移動手段に馬を使っていたことから、
衣装の前のところが、モーニングカットや
燕尾服のように、カットされて、足を出しやすく
上げやすくなっている。
この写真は、昭和16年に撮影されたものと
記録が残っている。新婦は、やはり黒の
本引振袖の姿に文金高島田と角隠し。
戦後は、都市部では核家族化や住宅事情に
より、自宅で祝言を挙げることが難しく、公共の
施設や広い会場をかりて披露宴を挙げるように
なる。会場は、公民館や集会所、旅館、だった。
昭和39年の東京オリンピック、45年の大阪
万国博開催において、大型ホテルが、乱立
する。これらの施設をバンケット会場、披露宴
会場に利用するようになる。
「自宅の祝言」から公共施設での披露宴
それが、ホテルでの結婚式へと価値観が
変化していく。 衣装も、新郎は、モーニング
コート、新婦は、白無垢に角隠しの形へ
高度経済発展へ成長していく、日本経済と
ともに、結婚式もホテルにおいての豪華
結婚式へ変化していく。
ここより先は、つい最近の五十年。
十年~二十年で結婚式スタイルが変化していく
昭和40年代~昭和60年代
神前式、ホテルウエディング(ホテル内の神前式)徐々にキリスト教の教会
(ホテル内の教会)での結婚式の全盛期
平成元年代
バブルの絶頂から崩壊へ
ホテルから、徐々にレストランウエディング、本物の教会+レストランへ
平成10年代~平成20年代
レストランウエディングと地味婚へ、しだいに神前式が増えてくる
形(ハード)は、どんどんと変化、進化していくが、結婚式の衣装もそれに
あわせ、挙式スタイルに合わせて変化していく、披露宴スタイルにおいて
も、披露宴演出も変化することが、以上の写真の変化でよくわかる。
色々な結婚式の形を この15年間みてきたが、もっとも大切なのは、心である。
結婚式が、新郎新婦がそれぞれの大切な親や兄弟姉妹すべての方に感謝を伝え
祝福を頂く(承認をしてもらう)ことが、もっとも大切な節目作りとなる。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/27
和のウエディングケーキ
をお願いしますと、
最近よくご注文される。
「和」のウエディングケーキって?
と思っていたが、あまりにも要望
される新郎新婦が多くなってきた
ので、パティシェに一緒に考えて
頂き、今までの「和」のウエディング
ケーキをまとめてみた。
一番大事な事は、和服に、着物の
姿の新郎新婦様が、ケーキカット
する際に似合うかどうかである。
和食の料亭において、家族だけの
会食会をお手伝いする、少人数
結婚式には、このケーキカット
のセレモニーがすごく
アットホーム感を演出
してくれる。
両家が、父、母、兄弟姉妹、伯父
伯母までの結婚式と言うと、大体の
人数が、両家合わせて20名ぐらい
である。 その場合、会食会の進行
自身は、プロの司会者ではなく、
新郎の司会や新郎新婦の兄弟姉妹
に司会をお願いして、、、、、
その司会をフォローする、弊社オリ
ジナル席次表『盛り上げ君』が、
大活躍する。 『盛り上げ君』
が、目指す、家族だけの
会食会は、やはり全員
参加の会食会、どうしても
両家の家族だけが集まると、緊張感
がただよい、スタートする場面から
1時間は、固い、、、お酒が程よく
まわり、皆の気持ちがすこし和らかく
成って来た頃には開宴後1時間後
すこしでも早くから、こ
の家族会が穏やかな
雰囲気にするには、
このウエディングケーキ
カットのセレモニーに家
族が一緒になることで
ある。
新郎新婦の二人を通して
、両家の家族と家族が、
親戚になる瞬間!!
大切な瞬間の時間と空
間を作るお手伝い!
使命感を持って
お手伝いをしております。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/26
吉祥文様 花ぐるま
「花ぐるま」。綺麗な花を積んだもの
を牛車に乗せているのが、とても
雅に思います。
「花ぐるま」の文様を調べてみると
平安時代の貴族たちが乗っていた
牛車に花を積んだ美しい花車を
模様にしている。四季の花々を
描いているので、季節を問わずに
振袖や色打掛の文様に使われる。
よく似た車の文様としては、御所車
がある。「御所車」の文様は、京都
御所の周辺で使われた貴族の乗り
物、古典的な雅な文様として用いら
れる。御所車の車輪をデザイン化
した文様を『源氏車』と呼び、独立
して使われる。
日本のキモノの歴史をひもとくと、その源は小袖
(こそで)にたどりつく。小袖は平安時代の頃、宮
中に仕えていた者たちの装束の1つで、表衣の
下に着ける下着的性質のものだった。それが
現在でいう小袖の形に定着したのは室町時代
前期の頃。 日本の染織品に見られ
る文様そのものは、時代をさか
のぼり、飛鳥・奈良時代に源を
求めることができる。
その時代の違例は、正倉院や法隆寺に伝えられ
ているが、染織品はいたみやすく、実物が残って
いるものは少ない。しかし、伝統的な文様としては、
漆器・陶器・金属品、その他の工芸や絵画に見ら
れ、それらをもとに伝統的な文様が現代に受け継
がれてる。
正倉院や東大寺に収められている工芸品に見られる古典的な文様は、もともと中国から渡来したものが中心となります。亀甲(きっこう)・七宝(しっぽう)・鶴(つる)・宝相華(ほうそうげ)・鳳凰(ほうおう)・孔雀(くじゃく)・鴛鴦(おしどり)・鴨など多様です。
現在では、すっかり日本の文化に定着をしていて、日本独特の文様になっている。
平安時代中期(894年)、菅原道真の意見により遣唐使船は廃止された。そして、中国模倣から解放された日本には、貴族を中心とした日本独自の文化を完成させた。この新しい文化を和洋文化といい、純粋な日本文化の起源になる。
平安時代は女性的な文化の時代といわれ、染織の世界でも女性達が競って美しい染織品をつくり出した。「十二単」に表れている四季折々の草花の色彩の変化、そのハーモニー(重ねの色目)は、日本の自然からしか生まれてこないものといえる。
平安時代以降の文様として、この花ぐるまは、日本の貴族文化の中から生活の中から
出てきた美しい文様。着物の文様から日本の歴史や文化の流れが見えるのは楽しい。
しかし、長い着物の歴史は、勉強を深める必要がある。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/25
猿田彦神社
伊勢の猿田彦神社。今年も1月22日に
参拝が無事にでき、スタート準備万端!
小学校四年生の頃、10歳から参拝に
いかせて頂き、今年で35年になりまし
た。感謝の気持ちでいっぱいです。
お正月のご祈祷をしていただき、最後
に頂きます、お札やお供物の中に、
『御敷地の砂』を頂きます
この砂を家や店舗の四方
へ撒くのが、年初めの我
が家の行事です。
猿田彦大神は天孫降臨の時、天と地
の間にある難所天八衢(あめのやち
また)に待ち迎えて啓行(みちひらき)
をされ天照大御神の孫(天孫)ニニギ
ノミコトを高千穂へと導かれました。
その後、本拠の地である伊勢の五十
鈴の川上に戻られ、ここを中心に広く
国土を開拓された地主神です。
千戦大神、白鬚大神、
道祖神、賽の神、庚申
さま等として津々浦々にお祀り
されています。
猿田彦神社には、相殿に大田命が
祀られてます。大田命は猿田彦大神
の御裔の神。垂仁天皇の御代に
皇女の倭姫命が神宮鎮祭の地を
求め諸国を巡られました。その時に
大田命がお迎えして、大神以来
守護して来た五十鈴の川上の霊域
を献上し、伊勢の神宮が創建され
ました。
ご社殿について、御本殿は二重
破風の妻入造りである「さだひこ
造り」。猿田彦大神の方除(八方
除)の御神徳にちなみ、屋根の上
の鰹木や鳥居を始め柱や欄干
など八角形になっています。
恒例の『御敷地の砂』の撒き方
土地や物が、猿田彦大神様の
御敷地の如く清らかになる様に
撒き清めるお砂です。
災いはツミやケガレが積み重な
って起きるものなので、定期的
に清めます。
清める撒き方は、まず東北の
隅から始めて右回りで清める。
アパートやマンションでは、
玄関やベランダなど外とつな
がる場所や人の出入りがある
場所に撒く。
商売をしている家は、商家の
店舗の入り口に撒きます。
大切な行事がある日の朝に
玄関に撒いたりもします。
清らかな場所で、清らかな心、
明るい気持ちで、正しく、直く、
日々過ごしていく。
夫婦円満、家庭円満、
子供が健やかに過ごせるように。
いつもありがとうございます。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/24
太刀と剣の御進徳
お聞きした話で、なるほど、
と感心を致しました。
昨年、上野で国立博物館にて
おこなわれていた、
『国宝 大神社展』
に出品されていた、沢山の
刀をもっと詳しく見ておけば、とも思いました。日本の国宝とよばれる
物の、約10%は、日本刀とのこと。刀剣類は、日本では
古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、
平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり片刃の刀剣
のことを指す。
寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、
長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。
神道における、三種の神器である、
八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣)
のように、剣が、宝、太刀が、ご祭神、であることに、
その刀が持つ、御神徳を考える。
人の心を切る、邪念を切る、刀。 刀は、至誠なのである。
美術、精神、機能の三つを持つ。
先日の新聞に掲載されていた太刀の写真をスキャナーしました。
三嶋大社旧蔵で、北条氏が奉納したと伝えることより「北条太刀」と呼ばれる。
全体に銀を多用した外装で、鞘も銀板を敷き、北条家の家紋である三鱗文を
毛彫鍍金であらわしている。上杉太刀と比べると、豪華な素材を使用している
が、連続した三鱗文を等間隔にあらわすなど質実な印象を与える。
刀身は無銘であるが、地刃の特徴から上杉太刀と同様に一文字派の製作と
考えられている。奉納品として製作されたと思われる太刀は、魳(かます)
切先となり、茎に反りがあり、細く薄くつくられるものが多いことが指摘されて
いるが、これは本作や上杉太刀も同様である。したがって、両作は当初から
奉納品として製作されたと思われる。
また、その製作年代は猪目を透かした瓶子形の足金物より、鎌倉時代中期を
下限とするものと思われる。
菅公を祭神とする全国約一万二千社の総本宮である。本品は、学問・至誠の神である
菅原道真の御形見として太宰府天満宮に伝来した毛抜形太刀である。この太刀の名は、
柄の中央部に毛抜きの形を透かすことに由来する。衛府官人の兵仗ゆえに衛府太刀
とも呼ばれ、また貴人が外出する際にも携行されたことから、故実書には「野剣(のだち)」
とも記される。十世紀に登場したこの太刀は、鎬(しのぎ)を立たせて反りを有する点から
日本刀の原型と目されるが、先行する蕨手刀(わらびてとう)と同様、刀身の柄が共鉄と
なり、巾木鎺(はばき)と鍔(つば)を切先側から挿し嵌(はめる)点に特徴がある。
しかし本品は、刀身と柄を二か所で鋲(びょう)留している点が異例である。
春日大社に伝わる金地螺鈿毛抜形太刀(国宝)や伊勢神宮の伝藤原秀郷佩用の錦包
毛抜形太刀(重文)と同様、当初は華麗な拵(こしらえ)を備えていたものと思われる。
しかし、天正六年(1578年)に兵火に遭って社殿が焼亡した際、外装を損じて焼身と
なったのが誠に惜しまれる。とはいえ、罹災後も社宝として奉安されていたため、
刃こぼれや膨れ錆などは見あたらない。また、焼身ゆえに、かえってそのシルエットが
際立ち、反り高い丸棟鎬造の魳鋒で、しかも刃区上に鎺留めの小孔まで確認でき、
兜金形の柄頭や毛抜形の透かしとともに毛抜形太刀の特徴をよく伝えている。
平安・鎌倉時代に帰するこの太刀の古例はきわめて少なく、出土品を含めても十指に
満たない。そのうち本作は、菅公佩用の所伝と相まって九州に伝来する稀有な一振で
ある。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/24
太刀と剣の御進徳
お聞きした話で、なるほど、
と感心を致しました。
昨年、上野で国立博物館にて
おこなわれていた、
『国宝 大神社展』
に出品されていた、沢山の
刀をもっと詳しく見ておけば、とも思いました。日本の国宝とよばれる
物の、約10%は、日本刀とのこと。刀剣類は、日本では
古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、
平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり片刃の刀剣
のことを指す。
寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、
長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。
神道における、三種の神器である、
八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣)
のように、剣が、宝、太刀が、ご祭神、であることに、
その刀が持つ、御神徳を考える。
人の心を切る、邪念を切る、刀。 刀は、至誠なのである。
美術、精神、機能の三つを持つ。
先日の新聞に掲載されていた太刀の写真をスキャナーしました。
三嶋大社旧蔵で、北条氏が奉納したと伝えることより「北条太刀」と呼ばれる。
全体に銀を多用した外装で、鞘も銀板を敷き、北条家の家紋である三鱗文を
毛彫鍍金であらわしている。上杉太刀と比べると、豪華な素材を使用している
が、連続した三鱗文を等間隔にあらわすなど質実な印象を与える。
刀身は無銘であるが、地刃の特徴から上杉太刀と同様に一文字派の製作と
考えられている。奉納品として製作されたと思われる太刀は、魳(かます)
切先となり、茎に反りがあり、細く薄くつくられるものが多いことが指摘されて
いるが、これは本作や上杉太刀も同様である。したがって、両作は当初から
奉納品として製作されたと思われる。
また、その製作年代は猪目を透かした瓶子形の足金物より、鎌倉時代中期を
下限とするものと思われる。
菅公を祭神とする全国約一万二千社の総本宮である。本品は、学問・至誠の神である
菅原道真の御形見として太宰府天満宮に伝来した毛抜形太刀である。この太刀の名は、
柄の中央部に毛抜きの形を透かすことに由来する。衛府官人の兵仗ゆえに衛府太刀
とも呼ばれ、また貴人が外出する際にも携行されたことから、故実書には「野剣(のだち)」
とも記される。十世紀に登場したこの太刀は、鎬(しのぎ)を立たせて反りを有する点から
日本刀の原型と目されるが、先行する蕨手刀(わらびてとう)と同様、刀身の柄が共鉄と
なり、巾木鎺(はばき)と鍔(つば)を切先側から挿し嵌(はめる)点に特徴がある。
しかし本品は、刀身と柄を二か所で鋲(びょう)留している点が異例である。
春日大社に伝わる金地螺鈿毛抜形太刀(国宝)や伊勢神宮の伝藤原秀郷佩用の錦包
毛抜形太刀(重文)と同様、当初は華麗な拵(こしらえ)を備えていたものと思われる。
しかし、天正六年(1578年)に兵火に遭って社殿が焼亡した際、外装を損じて焼身と
なったのが誠に惜しまれる。とはいえ、罹災後も社宝として奉安されていたため、
刃こぼれや膨れ錆などは見あたらない。また、焼身ゆえに、かえってそのシルエットが
際立ち、反り高い丸棟鎬造の魳鋒で、しかも刃区上に鎺留めの小孔まで確認でき、
兜金形の柄頭や毛抜形の透かしとともに毛抜形太刀の特徴をよく伝えている。
平安・鎌倉時代に帰するこの太刀の古例はきわめて少なく、出土品を含めても十指に
満たない。そのうち本作は、菅公佩用の所伝と相まって九州に伝来する稀有な一振で
ある。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/23
方位
商売をしていく中で、「鬼門」とか、
小さい時からよく両親が話をしていた
「ここの土地は、この方向が、鬼門や
から、こっちに入口やな、、、、」
鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら
:丑と寅の間)の方位のことである。
陰陽道では、鬼が出入りする方角で
あるとして、万事に忌むべき方角とし
ている。鬼門とは反対の、南西(坤、
ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきも
ん)と言い、この方角も忌み嫌われる。
鬼門は、古代中国の書物『山海経』に
ある物語が元となっており、北西(乾)
を「天門」、南西(坤)を「人門」、南東
(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」と
したことによる。
陰陽道においては、北と西は陰、東と
南は陽とされ、北東と南西は陰陽の
境になるので、不安定になると説明さ
れる。
東西南北というように四方位、自分を
中心と考えると360度をどのように分
割するかと調べてみると沢山ある。
江戸時代よく、子の刻、丑の刻と干支
で時間を示すようにつまり、十二支で
十二分割をして考える方法。
八卦を使うとして、八分割にする
後天方位というのもある。人間が
自然にさからって暮らすことを勘案し
てできたといわれており、水と火の天
地の循環を中心としています。つまり、
南に火(日・日照・離)を、北に水(月・
雨・坎)を配し、西北に乾、西南に坤を
配します。
十干を使って十分割と思うと、やはり
難しい。十干の考えでは、戊(つちの
え)と己(つちのと)は土として、中央
に来るから、八干しか使わない、十分
割というよりも、十二支・八卦・十干を
組み合わせた二十四方向の方位の
考えがあった。この内、北(坎・子)、
東(震・卯)、南(離・午)、西(兌・酉)を
四方、北東(艮)、南東(巽)、南西(坤)
、北西(乾)を四維という。
道開きの伊勢の猿田彦神社には、この二十四方位の「方位石」が境内にあった。
方位は、勉強すれば、深く、まだまだある、生まれ年などで起こる「八方塞」、
その為の「八方除け」、入口の方向が悪いからと「方違い」の考えなど沢山ある。
これは、八卦、易経を勉強していると卦を読むのに方位も関係するので、
勉強になる。「良縁」。「運気」、「開運」等 縁起をかつぐのは大切である。
また、自分自身でそれら運気をつかむのも大事!是非とも運気を、良縁を
つかみに、行こう。
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- ニュース
- 投稿日:2014/01/22
倭は国のまほろば
倭は国のまほろば
死に臨んだ倭建命は大和を目前にし最後の地、鈴鹿の麓、
野煩野(のぼの)で、「国偲び
の歌」を詠んだ。
『倭は 國のまほろば たたなづく
青垣 山隱れる 倭しうるはし』
(大和の国は国々の中で最も
優れた国だ。重なり合って青々と
した垣のように国を囲む山々。
(その山々に囲まれた)大和は美しい)
※はほろば語義
「素晴らしい場所」「住みやすい
場所」という意味の日本の古語。
「まほらば」「まほらま」ともいう。
私のまほろばの地、大好きな三輪
神社のエリアか、、三輪のエリアは、
約十年程前、母と三輪神社に