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- 投稿日:2016/05/02
思いっきり生きる ドクター長堀優氏
「思いっきり、生 き る」
育成会横浜病院々長 長堀 優 氏
1. 死は敗北ではない
*いま世の中は、「健康情報」であふれ返っている。「健康で生きる」とは、一体どうい
うことなのか。医療や食品に頼ることではなく、自分自身の生き方を見つめ、そして考
え直すことだ。つまり、健康な生き方のカギを握るのは他ならぬ自分自身なのだ。
一方で、最近、医療への批判が高まり、殊にがんに対する手術、抗がん剤療法などへの
批判が増えている。現代医学の中心である西洋医学は、ひどい怪我や肺炎、虫垂炎など
の炎症には欠かせないもので、本来、重要なものだ。ただ、この日本では、あまりにも西
洋医学に頼り過ぎており、その結果、様々な矛盾を起こしているのも確かだ。
*体力のない患者に手術を施したり、強い抗がん剤を投与するなどは、矛盾の例と言える。
この背景には、西洋医学の「死は敗北なり」との考えがある。死は本来、誰にでも訪れる
もの。しかし、西洋医学では、この死との向きあい方を全く考えてこなかった。ここに大
きな問題がある。だからこそ、近づく死を遠ざけようとムリな治療が行われてしまうのだ。
死は誰にでも100%訪れる。だが西洋医学の現場では、「敗北」である死を考えないように
してきた。私も若い時、そう思っていた。しかし、ある時、「死は敗北ではない」という
ことに気づかされた。
*教えてくれたのは、死を目前にした勇気ある患者さんたちだった。恐ろしいはずの死を
とことん見つめることで、現在の「生」「命」が輝き、それが「健康に生きる」につなが
っていく…。正に、「大どんでん返し」だ。このように「死は敗北ではない」と教えるの
が実は東洋哲学であり、西洋医学の至らないところを、補ってくれているようだ。
*ところで、今の西洋医学のどこに問題があるのか。世界は相反する2つの要素、善と悪、
光と影、粒子と反粒子…からできている。この考え方が二元論で、これによれば当然、病
気は「悪」となる。悪である病気を治そうとして、医学が進歩してきたのは確かだ。
ところが実際には「病気になって生き方の間違いに気づけてよかった」という患者さんが
おられる。「万事塞翁が馬」という言葉があるように、東洋では善も悪も本来分けがたい
ものという考え方がある。したがって病気も悪いばかりではないのだ。そこで西洋科学と
東洋哲 学の統合という発想が生まれた。これが究極の一元論であり、医療のみならず、
これからの世の中を変えていく - そう私は思っている。
*いま現代医学の中心は西洋医学だが、ここまで進歩させたのは科学の力だ。我々はどうし
ても従来の常識に引っ張られてしまう。しかし、事実を先入観なしに眺めること、この姿
勢の中にこそ常識を打ち破る考え方を生む。事実を観察し → 仮説を立て一般化する →実
生活に応用する、これが科学の方法。しかし、ここで注意しなければいけないのは科学的
方法を重視した医学の世界と、実際の現場の医療は食い違うことも多いということ。実は
これこそがいまの医療の現場における大きな問題の一つだ。
*西洋科学に基づく医学の世界では、客観的観察と一般的な法則の2つが重要になってくる。
例えば、検査で悪い所を見つけるのは、客観的観察に当たるだろう。「この病気にはこん
な薬がよい」は一般的な法則。誰にも分るような客観的な検査データや多くの人に効く治
療法は、医学でもちろん大切だ。しかし、その一方で実際の医療の現場では、目の前の患
者が何を悩んでいるかが重要になる。例えば、レントゲンの検査結果は患者の期待とは、
必ずしも一致しない。治療法についても同様だ。治る人もいれば治らない人もいる。皆、
経過は違う。万能薬といったものは存在しない。しかし、医者は、医学的で科学的な立場
を大切にする。従って、患者に向かって「生存率は何パーセントです」と平気で言う医師
もいる。しかし、「自分はどうなるのか!?」という患者の問いには、答えてはいない。
医師には患者個人のことより、一般的傾向や法則が大事なのである。
*医師がそのような患者個人の訴えより、客観的な検査データや一般的傾向を大事にするの
は、先述の「科学的態度」とピタリと一致する。医師のこの態度が変わらなければ、医師
の思いと患者の希望や訴えとは永遠に噛み合うことはない。この点を作家・遠藤周作氏は
「現場の医療とは、『医学+人間学』」と喝破しているが、正にその通り。ここで謂う人間
学とは「人間のこころ」ではないか。
*このような西洋医学だが、はっきりとした特徴と限界がある。急に症状が起こってくるよ
うな、「急性期疾患」には大きな威力を発揮する。怪我、肺炎、虫垂炎、心筋梗塞には、
いい結果が出ている。その一方、「慢性期疾患」、糖尿病、高血圧など生活習慣にかかわ
る病気や進行した「がん」、精神科の病気、膠原病などの所謂「難病」に対する治療は、
いまだ道半ばだ。「病気を治すということが薬を必要としない状態に戻すこと」とするな
ら、「病気を治す」ことは全くできていない。表面的な症状を抑えているだけだ。「5年
生存率」という言葉がよく使われるが、がんの余命宣告など、本来、医師にはおこがまし
くてできることではない。
2.「どんでん返し」
*「心が体に影響を与える」と言えば、意外に思うかもしれない。心は目に見えないので科
学的ではないようにも思えるからだ。しかし、医学界ではこれを当たり前のこととして認
めている。医学界には、「プラシ―ボ効果」という言葉がある。砂糖水を薬として飲むと
頭痛が治るといった現象を指す。心が体の反応を変えているのだ。「プラシーボ」とはラ
テン語で「喜ばせる」という意味だ。
医師と患者の信頼関係が良好で、患者自身の「治す」という思いが強くなると、「プラシ
ーボ効果」が、ますます高まることがわかってきた。何より「副作用がない」というのが
大きなメリットだ。われわれ医療者は、このプラシーボ効果を今一度、見直してみる必要
がある。この「プラシーボ効果」とは逆の「ノーシーボ効果」というのもある。これは
「否定的な思いが病気を引き起こす」という現象である。「自分は心臓病に罹り易い」と思
っている女性は、そうでない女性の死亡率の4倍もあるという。
*2500年前、仏陀は「すべての人間は、自分自身の健康、ないしは病気の作者である」
と説いた。また、「ポジティブな思いは、良い遺伝子のスイッチを入れる」と指摘するの
は村上和雄・筑波大名誉教授だ。「 ポジティブな思いとは、他人への思いやり、つまり利
他の心である。この時のワクワクする気持ちが大切であり、行動を選ぶ時は、正しいか、
正しくないかより、嬉しいか嬉しくないかで選ぶべし 」と。一方、エゴや欲、怒りや不安
にとらわれた行動は、その対極と言える。そのような思いは、自分の心に悪い遺伝子のス
イッチを入れる。つまりは、良いも悪いも自分次第ということになる。がんに関して言え
ば、ポジティブな思いは「良い遺伝子」で、がん抑制のスイッチを入れる。ネガティブな
思いは、逆に、がんのスイッチが入りやすい。
*鈴木秀子・聖心女子大学元教授は、心の健康を回復させる特徴として、3つのポイントを
挙げている。➀運命を受け入れること。私たちを生かす大自然に感謝し、すべてを委ね、
何があろうとも受け入れることだ。➁生きていることは当たり前ではない。人生はたいへ
んなことを自覚し、生かされているという奇跡に感謝し、生きる意欲に溢れ、毎日を送る
こと。➂他人や自分への愛を感じること。人とのつながりを大事にし、人に尽くしたいと
いう強い願望を持つこと。この3つの態度が心を健康にする、鈴木先生は指摘している。
言いかえれば、「運命の受容」「生かされていることへの感謝」「他人への愛」というこ
とになる。それが人生を実り多いものにする秘訣ではないか。悔いなく、思いきり生きる
ことができれば、最後の時期を迎えてもても、受け入れることができる。良く生きること
は、良く死ぬことでもある。
*科学の巨人たちが遺した言葉を紹介したい。アインシュタインは「私たちが最も美しく、
最も感動をするのは神秘的なものを感受した時である。そして、これこそがすべての科学
の原動力である」という言葉を遺している。ノーベル賞を受賞された山中先生と益川先生
が対談で話されたのは、「人間の考えることなんかより、自然の方がずっと奥深い。そし
て、考えるとは、感動することである」と。このように科学の巨頭たちが揃いも揃って、
知識や理性より情動の重要性を説いているのは、驚くべきことだ。考えて見れば、情動、
感動という言葉はあっても、知動、理動という言葉はない。自分の感性をもっと大事にし
た方がいい。私の今の思いを言葉で表せば、医療現場では平均化より個別化、言いかえれ
ば「一人ひとりの個性の違いを大事にする」ことである。心の持ちようで、体や病気が変
わるのだ。したがって、今後の医療を考える時、「個別化医療」と「心を見つめる医療」、
この2つがキーワードになってくると私は思う。
*がんの医療においては、医療者と患者に加え、患者の家族を加えた三者の関係を良好に保
つことが重要になる。問題はがんが再発したり、進行した状況になった時である。医療者
は痛みを取るなどの対症療法しかなく、次第に腰が引けていく。その一方、家族は、別離
思いに苛まれ、セカンド・オピニオン探しなどに追われ、患者との対話も次第に少なくな
る。そんな中で患者は自分の状態が悪くなっていくことをはっきり自覚し、後悔の念に苛
まれたりする。そして何より、家族と共に最後の時を長く分かち合いたいと強く望むよう
になる。しかし、その一方、家族に心配をかけまいと自らの殻に閉じ籠り、つらい孤独の
中で最後を迎える人が少なくない。
*最近、セラピストの資格を持つ看護師が大きな役割を果たしている。ターミナルケアの逃
げようもない精神的に過酷な現場で疲弊し、現場を辞めた看護師が自分を癒すために、ア
ロマなどの資格を取って、看取りの現場に復帰する人が増えてきたのは嬉しいことだ。こ
のような看護師とのセラピーを通じた触れあいで、どうしようもない不安を癒されたとい
う患者を多く見てきた私は、このような精神と技術をもった看護師に大いなる期待を抱い
ている。
*死と向き合うことで見えてくるものは何か。仏教は教える。死という深い悲しみをとこと
ん見つめることにより、実は大どんでん返しが起きる。それは何か。今生きていることは
当たり前ではない。感謝すべきこと。つまり、いま生かされているという奇跡への感謝に
他ならない。今日、平和で過ごせたことは、当たり前ではなく感謝すべきこと。この貴重
な毎日をワクワク楽しく暮らすことが旅立ちの日を、後悔なく迎えるための秘訣になるの
だ。さらに仏教では、「対峙ではなく、共存すべし」とも教えている。病気の原因となっ
た自分の考えや行動を見つめ直し、生活を改めること。悲しみの底から湧きおこってくる
「どんでん返し」とは、悲嘆の極致から、感謝、愛、受容の心によって、幸せな気持ちに
一気に上昇させることである。正に「どんでん返し」だ!
*神道にも「中今(なかいま)」という言葉がある。過去の後悔や未来の不安から離れ、今に集
中する。今には過去も未来もない。がんがあろうとなかろうと、誰にも平等に与えられた
死の瞬間・・・所詮、未来など誰にも分らない。健康であっても明日事故で命を落とすか
もしれない。それが人生だ。病気の人も健康な人も、与えられたこの今の一瞬を最良とし、
そして精一杯生きること、それが人生で大切なのだ。明日が来ること、それは「当たり前
」ではない。そのことをわれわれは肝に銘じる必要がある。仏教でいう「生き切る」と共
に、このような心境で人生を全うすること。これこそが究極の健康法ではないかと私は考
えている。 (了)
「思いっきり、生 き る」 育成会横浜病院々長 長堀 優 氏
1. 死は敗北ではない *いま世の中は、「健康情報」であふれ返っている。「健康で生きる」とは、一体どういうことなのか。医療や食品に頼ることではなく、自分自身の生き方を見つめ、そして考え直すことだと私は思う。つまり、健康な生き方のカギを握るのは他ならぬ自分自身なのだ。
一方で、最近、医療への批判が高まり、殊にがんに対する手術、抗がん剤療法などへの批判が増えている。現代医学の中心である西洋医学は、ひどい怪我や肺炎、虫垂炎などの炎症には欠かせないもので、本来、重要なものだ。ただ、この日本では、あまりにも西洋医学に頼り過ぎており、その結果、様々な矛盾を起こしているのも確かだ。
*体力のない患者に手術を施したり、強い抗がん剤を投与するなどは、矛盾の例と言える。この背景には、西洋医学の「死は敗北なり」との考えがある。死は本来、誰にでも訪れるもの。しかし、西洋医学では、この死との向きあい方を全く考えてこなかった。ここに大きな問題がある。だからこそ、近づく死を遠ざけようとムリな治療が行われてしまうのだ。死は誰にでも100%訪れる。だが西洋医学の現場では、「敗北」である死を考えないようにしてきた。私も若い時、そう思っていた。しかし、ある時、「死は敗北ではない」ということに気づかされた。
*教えてくれたのは、死を目前にした勇気ある患者さんたちだった。恐ろしいはずの死をとことん見つめることで、現在の「生」「命」が輝き、それが「健康に生きる」につながっていく…。正に、「大どんでん返し」だ。このように「死は敗北ではない」と教えるのが実は東洋哲学であり、西洋医学の至らないところを、補ってくれていると私は思う。
*ところで、今の西洋医学のどこに問題があるのか。世界は相反する2つの要素、善と悪、光と影、粒子と反粒子・・・からできている。この考え方が二元論で、これによれば当然、病気は「悪」となる。悪である病気を治そうとして、医学が進歩してきたのは確かだ。
ところが実際には、「病気になって生き方の間違いに気づいてよかった」という患者もいる。「万事塞翁が馬」という言葉があるように、東洋では善も悪も本来分けがたいものという考え方がある。したがって病気も悪いばかりではないのだ。そこで西洋科学と東洋哲 =1= 学の統合という発想が生まれた。これが究極の一元論であり、医療のみならず、これからの世の中を変えていく - そう私は思っている。
*いま現代医学の中心は西洋医学だが、ここまで進歩させたのは科学の力だ。我々はどうしても従来の常識に引っ張られてしまう。しかし、事実を先入観なしに眺めること、この姿勢の中にこそ常識を打ち破る考え方を生む。事実を観察し → 仮説を立て一般化する →実生活に応用する、これが科学の方法。しかし、ここで注意しなければいけないのは科学的方法を重視した医学の世界と、実際の現場の医療は食い違うことも多いということ。実はこれこそがいまの医療の現場における大きな問題の一つだ。
*西洋科学に基づく医学の世界では、客観的観察と一般的な法則の2つが重要になってくる。例えば、検査で悪い所を見つけるのは、客観的観察に当たるだろう。「この病気にはこんな薬がよい」は一般的な法則。誰にも分るような客観的な検査データや多くの人に効く治療法は、医学でもちろん大切だ。しかし、その一方で実際の医療の現場では、目の前の患者が何を悩んでいるかが重要になる。例えば、レントゲンの検査結果は患者の期待とは、必ずしも一致しない。治療法についても同様だ。治る人もいれば治らない人もいる。皆、経過は違う。万能薬といったものは存在しない。しかし、医者は、医学的で科学的な立場を大切にする。従って、患者に向かって「生存率は何パーセントです」と平気で言う医師もいる。しかし、「自分はどうなるのか!?」という患者の問いには、答えてはいない。医師には患者個人のことより、一般的傾向や法則が大事なのである。
*医師がそのような患者個人の訴えより、客観的な検査データや一般的傾向を大事にするのは、先述の「科学的態度」とピタリと一致する。医師のこの態度が変わらなければ、医師の思いと患者の希望や訴えとは永遠に噛み合うことはない。この点を作家・遠藤周作氏は「現場の医療とは、『医学+人間学』」と喝破しているが、正にその通り。ここで謂う人間学とは「人間のこころ」ではないか。
*このような西洋医学だが、はっきりとした特徴と限界がある。急に症状が起こってくるような、「急性期疾患」には大きな威力を発揮する。怪我、肺炎、虫垂炎、心筋梗塞には、いい結果が出ている。その一方、「慢性期疾患」、糖尿病、高血圧など生活習慣にかかわる病気や進行した「がん」、精神科の病気、膠原病などの所謂「難病」に対する治療は、いまだ道半ばだ。「病気を治すということが薬を必要としない状態に戻すこと」とするなら、「病気を治す」ことは全くできていない。表面的な症状を抑えているだけだ。「5年生存率」という言葉がよく使われるが、がんの余命宣告など、本来、医師にはおこがましくてできることではない。 =2= 2.「どんでん返し」 *「心が体に影響を与える」と言えば、意外に思うかもしれない。心は目に見えないので科学的ではないようにも思えるからだ。しかし、医学界ではこれを当たり前のこととして認めている。医学界には、「プラシ―ボ効果」という言葉がある。砂糖水を薬として飲むと 頭痛が治るといった現象を指す。心が体の反応を変えているのだ。「プラシーボ」とはラテン語で「喜ばせる」という意味だ。
医師と患者の信頼関係が良好で、患者自身の「治す」という思いが強くなると、「プラシーボ効果」が、ますます高まることがわかってきた。何より「副作用がない」というのが大きなメリットだ。われわれ医療者は、このプラシーボ効果を今一度、見直してみる必要がある。この「プラシーボ効果」とは逆の「ノーシーボ効果」というのもある。これは「否定的な思いが病気を引き起こす」という現象である。「自分は心臓病に罹り易い」と思っている女性は、そうでない女性の死亡率の4倍もあるという。
*2500年前、仏陀は「すべての人間は、自分自身の健康、ないしは病気の作者である」と説いた。また、「ポジティブな思いは、良い遺伝子のスイッチを入れる」と指摘するのは村上和雄・筑波大名誉教授だ。「 ポジティブな思いとは、他人への思いやり、つまり利他の心である。この時のワクワクする気持ちが大切であり、行動を選ぶ時は、正しいか、正しくないかより、嬉しいか嬉しくないかで選ぶべし 」と。一方、エゴや欲、怒りや不安にとらわれた行動は、その対極と言える。そのような思いは、自分の心に悪い遺伝子のスイッチを入れる。つまりは、良いも悪いも自分次第ということになる。がんに関して言えば、ポジティブな思いは「良い遺伝子」で、がん抑制のスイッチを入れる。ネガティブな思いは、逆に、がんのスイッチが入りやすい。
*鈴木秀子・聖心女子大学元教授は、心の健康を回復させる特徴として、3つのポイントを挙げている。➀運命を受け入れること。私たちを生かす大自然に感謝し、すべてを委ね、何があろうとも受け入れることだ。➁生きていることは当たり前ではない。人生はたいへんなことを自覚し、生かされているという奇跡に感謝し、生きる意欲に溢れ、毎日を送ること。➂他人や自分への愛を感じること。人とのつながりを大事にし、人に尽くしたいという強い願望を持つこと。この3つの態度が心を健康にする、鈴木先生は指摘している。言いかえれば、「運命の受容」「生かされていることへの感謝」「他人への愛」ということになる。それが人生を実り多いものにする秘訣ではないか。悔いなく、思いきり生きることができれば、最後の時期を迎えてもても、受け入れることができる。良く生きることは、良く死ぬことでもある。
=3= *科学の巨人たちが遺した言葉を紹介したい。アインシュタインは「私たちが最も美しく、最も感動をするのは神秘的なものを感受した時である。そして、これこそがすべての科学の原動力である」という言葉を遺している。ノーベル賞を受賞された山中先生と益川先生が対談で話されたのは、「人間の考えることなんかより、自然の方がずっと奥深い。そして、考えるとは、感動することである」と。このように科学の巨頭たちが揃いも揃って、知識や理性より情動の重要性を説いているのは、驚くべきことだ。考えて見れば、情動、感動という言葉はあっても、知動、理動という言葉はない。自分の感性をもっと大事にした方がいい。私の今の思いを言葉で表せば、医療現場では平均化より個別化、言いかえれば「一人ひとりの個性の違いを大事にする」ことである。心の持ちようで、体や病気が変わるのだ。したがって、今後の医療を考える時、「個別化医療」と「心を見つめる医療」、この2つがキーワードになってくると私は思う。
*がんの医療においては、医療者と患者に加え、患者の家族を加えた三者の関係を良好に保つことが重要になる。問題はがんが再発したり、進行した状況になった時である。医療者は痛みを取るなどの対症療法しかなく、次第に腰が引けていく。その一方、家族は、別離思いに苛まれ、セカンド・オピニオン探しなどに追われ、患者との対話も次第に少なくなる。そんな中で患者は自分の状態が悪くなっていくことをはっきり自覚し、後悔の念に苛まれたりする。そして何より、家族と共に最後の時を長く分かち合いたいと強く望むようになる。しかし、その一方、家族に心配をかけまいと自らの殻に閉じ籠り、つらい孤独の中で最後を迎える人が少なくない。
*最近、セラピストの資格を持つ看護師が大きな役割を果たしている。ターミナルケアの逃げようもない精神的に過酷な現場で疲弊し、現場を辞めた看護師が自分を癒すために、アロマなどの資格を取って、看取りの現場に復帰する人が増えてきたのは嬉しいことだ。このような看護師とのセラピーを通じた触れあいで、どうしようもない不安を癒されたという患者を多く見てきた私は、このような精神と技術をもった看護師に大いなる期待を抱いている。
*死と向き合うことで見えてくるものは何か。仏教は教える。死という深い悲しみをとことん見つめることにより、実は大どんでん返しが起きる。それは何か。今生きていることは当たり前ではない。感謝すべきこと。つまり、いま生かされているという奇跡への感謝に他ならない。今日、平和で過ごせたことは、当たり前ではなく感謝すべきこと。この貴重な毎日をワクワク楽しく暮らすことが旅立ちの日を、後悔なく迎えるための秘訣になるのだ。さらに仏教では、「対峙ではなく、共存すべし」とも教えている。病気の原因となった自分の考えや行動を見つめ直し、生活を改めること。悲しみの底から湧きおこってくる =4= 「どんでん返し」とは、悲嘆の極致から、感謝、愛、受容の心によって、幸せな気持ちに一気に上昇させることである。正に「どんでん返し」だ!
*神道にも「中今(なかいま)」という言葉がある。過去の後悔や未来の不安から離れ、今に集中する。今には過去も未来もない。がんがあろうとなかろうと、誰にも平等に与えられた死の瞬間・・・所詮、未来など誰にも分らない。健康であっても明日事故で命を落とすかもしれない。それが人生だ。病気の人も健康な人も、与えられたこの今の一瞬を最良とし、そして精一杯生きること、それが人生で大切なのだ。明日が来ること、それは「当たり前」ではない。そのことをわれわれは肝に銘じる必要がある。仏教でいう「生き切る」と共に、このような心境で人生を全うすること。これこそが究極の健康法ではないかと私は考えている。 (了)