中学二年生から神主に憧れ、六十歳になったら神職になろうと計画してきました。それが、結婚式・神前式のお手伝いをすることになり、予定より15年も早く神社庁より権正階と言う位を頂きました。私は、神道を宗教としてでなく、日本の美しい文化、生活習慣、作法と伝統として また日本人が自然と共存し、神を感じ感謝し、怖れそして祀り、生きていく美しさを世界に発信したい。
神社や神道を勉強したい一般の方に、一般の方の目線に立ち、ご紹介できる立場になりたいと思います。
普段の生活において、手を合わせ、感謝できる時間と空間を持つことが、人間としての成長につながり、良きご縁を頂けることだと思います。!
大阪・天満橋、東京・新宿にある結婚式場ブレスアスオール。
その東京を運営する株式会社BUAホールディングスの代表取締役 川辺徹です。
当式場はチャペル式の結婚式場をメインでお手伝いしてまいりましたが、近年、見直され徐々に増えてきている、
日本式の結婚式「和婚」に触れるうち、この素晴らしい伝統的な結婚式を絶やしてはならない、
それどころかより多くの方々に「和婚」の良さを知ってもらいたいと思うようになりました。
東京では品川神社、居木神社、芝大神宮、赤坂氷川神社、湯島天神、赤坂豊川稲荷などでの結婚式をお手伝いし、大阪では御霊神社や大阪城内にある豊国神社での撮影などもお手伝いしております。
そして平成20年、品川神社の宮司との出会いが転機となります。
「そんなに熱い思いがあるなら、神職になれば」
という宮司の言葉に触発され、平成23年に大阪國學院の受験。
平成25年4月卒業を迎え、45歳にして神職となりました。
このブログ、祝詞を通し多くの方々へ
自分の運命を決める仕事、友人、恋愛、等の縁を結ぶ想いをお届けできればと考えています。
12時40分 受付
13時より15時まで
JR浜松町、地下鉄大門駅近く、芝の増上寺横にある
芝東照宮において、
良縁祈願参拝 & 祝詞セミナーを行います
私は、祝詞担当となります。
是非、毎日の生活のほんの10分、祝詞をあげて
清らかな心を作る時間を持ちませんか?
そのための、入門講座を年4回行います。
お気軽にご参加ください!!
お待ちしております。
- ニュース
- 投稿日:2014/01/01
明けましておめでとうございます。
平成二十六年甲午(きのえうまどし)皇紀2674年。
昨日は、家族と父と一緒に墓参りに行き、私と子供が、墓石を磨き、その間に父が、
線香に火を付ける。そして、川辺家本家、分家、そして祖母の実家と回り、
私の祖父母、母の眠るお墓、最後に母の実家の墓と回りました。
子供が大きくなり年々作業が早くなりお墓参りの時間が短くなっていく。
また、父と子供全員で、祖父母と母へ『般若心経』を一巻あげる。
そんな孫たちのたくましさと成長に父は、感動していました。
年々成長する子供に負けず、私自身が生まれてきた天命として、「沢山の人が
幸せになるお手伝いをし、国家の為、世界の為に貢献できる人間になる。」
と言う使命をもって、日々向上して参ります。
今日は、父と弟妹家族と一緒に年始の挨拶とお屠蘇を頂き、今年の宣言を皆の前で
致します。そしておせち料理を頂きます、川辺家の正月が、始まります。
おせち料理は、
「願いのこもった料理」
って、この前のNHKの
ごちそうさんで言ってた。
黒豆は、まめに働く。
海老は、背中が曲がるまで
長生き、長寿。
クワイは、芽が出てくるように
数の子は、子だくさん、豊穣
レンコンは、将来を見通す
御節料理(おせち)
とは、節日(節句)に作られる
料理。節日のうち最も重要
なのが正月であることから、
正月料理を指すようになった。
「おせち」は「御節供(おせちく、
おせつく)」の略である。
奈良時代には朝廷内
で節会(せちえ)として行われ、
そこで供される供御を節供
(せちく)と言った。
この五節会の儀を一般庶民が
ならって御節供を行うようにな
ったものと考えられている。もと
もとは五節句の祝儀料理すべて
をいったが、のちに最も重要と
される人日の節句の正月料理を
指すようになった。正月料理は
江戸時代の武家作法が中心と
なって形作られたといわれている。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、
江戸では「食積(くいつみ)」、九州
の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・
手懸け盛り」と称し
歳神様に三方などでめでたい
食べ物などを床の間に飾り、また
年始の挨拶に訪れた客にも振舞っ
たり家族も食べたりした。
歳神・歳徳神(としがみ・としとくじん)
正月に訪れて新しい年をもたらす神
で、正月様ともいう。歳徳神という
名称は陰陽道の説から出たもので、
恵方つまりその年の吉方を司る女神のことである。
新しい年の始めに豊かな実りをもたらす降臨するという古くからの信仰に
陰陽道の要素が加わって普及したのが歳徳神の信仰である。
おせち料理は、綺麗な日本の文化、そして正月の
お楽しみの一つ。
今年も願いを込めて、家族ともども健康に、
日々向上します。
- ニュース
- 投稿日:2013/12/31
伏見稲荷大社の神々へ、感謝と祈願参拝
向けての祈願参拝致しました。
伏見稲荷さんには、年に二回必ず
参拝させて頂きます。参拝の時は
一の社、上社末廣稲荷さんまで
上がります。
今回の参拝には、家族も連れて
行きました。山(稲荷山)に登ると
言う健康もかねての参拝です。
伏見稲荷大社の名の由来は、
『風土記』の伝承があります。
和銅六年(713)の五月二日時の政府は『風土記』
編纂命令が出、各国々の国司・郡司や九州の場合
は大宰府が編纂をはじめた。
『風土記』の中に、伊奈利社の社名誕生の由来が
記載されている。
「伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶
具秦公、稲梁を積みて富み裕ひき。乃ち、餅を用ち
て的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山
の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」
と言う文がある。
訳すと、
「秦公伊侶巨が稲を積んで富み栄え、餅を弓の的に
したところ、白鳥になって飛び去り、山の峯にとどま
って、稲が生えた。そこで、伊禰奈利(稲生)を社の
名とした。」
伏見稲荷大社の大神は、延喜五年(905)から編纂
が開始されて延長五年(927)にできあがった。
『延喜式』の「神名帳」山城国紀伊郡の明神大社と
して「稲荷神社三座」と明記されているように、
宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神
を奉斎していた。
宇迦之御魂大神のウカノミタマは倉稲魂とも表記
し、ウカはウケと同じで「倉(食物)」の御魂の神で
あり、『古事記』には速須佐之男命(スサノヲノミコ
ト)と大山津見神の娘の神大市比売との間に生ま
れた神として「宇迦之御魂」の神と記す。
佐田彦大神は『二十二社
註式』に猿田彦神とするように、
天孫降臨神話における先導の
神猿田彦神とする信仰にもとづく。
大宮能売大神は宮中の
御巫の祭る八神の一神で朝廷で
篤く信仰された神でもあり、『延喜
式』の大殿祭の祝詞では、宮中の
安泰を守り「言直し和しまして、
皇御孫命の朝の御膳(みけ)・夕
べの御膳に供へまつる」宮人の
神と述べられている。
後白河法皇の撰なる『梁塵秘抄』
のつぎの歌である。
稲荷をば三つの社と聞きしかど
今は五つの社なりけり
平安時代の末ごろから鎌倉時代
のはじめのころには五社の稲荷
大神になっている。
さきの三神に田中大神と四大神
が加わって、現在の五社相殿と
なっている。
田中大神も田の神であり、
四大神は、春・夏・秋・冬のなか
で稲が生長変化してゆくありよう
にもとづくとする神。
伏見稲荷さんでは、千本鳥居を
通り抜け、階段をすすみ、池の
ほとりにある、熊鷹社において、
いつもロウソクを奉納致します。
そして、次に続くお山を上がり、
一息つくのが四辻。ここで、
京都盆地をながめます。
そしてそこからさらに登ると下社、
中社、上社と続き。上社において、
ロウソクとお供えをして、祝詞・
稲荷大神秘文を奉唱致します。
平成二十五年も無事に終わり、平成二十六年の午年、
前半から掛け登れるように走りぬきます。
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- ニュース
- 投稿日:2013/12/30
お年玉袋作りました!
折形デザイン研究所
日本の美しい伝統としてこのお年玉は
残っていくとして、子供には、歳神様の
事を是非、伝えたいですね。
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- ニュース
- 投稿日:2013/12/29
「十牛図」後半
自分の心の旅、本来の自分を
見つけ、自分自身が、心を
鍛え、成長させていく物語
後半です。
第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか)
牛に乗って家に帰る
自分の心の煩悩との戦いは、
終わり、もはや、鞭も縄も
必要ない。
心は、爽やかに澄んでいる。
第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)
牛は消え私だけがいる
大悟(だいご)の状態、迷い
から抜け出して、真理を会得
すること。
大いなる悟りの状態である。
第八図 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
人も牛もいなくなる
『空』である。
空とは、万物は変化すること
万物は変化した結果亡びる
亡びて消え去る、こだわりは
捨ててしまう。
身心脱落(しんじんだつらく)
身も心も一切の束縛から解放
されて、絶対的な自由を獲得
すること。道元のことば。
無であり、無限、『丸』、『えん』
の状態。『縁』でもあり、『結び』
の事である。
第九図 返本還源(へんぽんかんげん)
生まれ変わる
色即是空(しきそくぜくう)によって
万物は亡びて、無となったが、
無もまた、空を免れない
再び変化した結果
無から、万物は生じてくる
第十図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)
俗に入り教化する
なぜ私は、この世に生まれてきたのか?
私でなければはたせない
私だけの役割をはたすために
私は、この世に生まれてきた
和光同塵(わこうどうじん)
仏や菩薩が、知徳の光を隠し
世俗と同じ次元で姿を現し
人々を救うこと。
衆生済度(しゅじょうさいど)
仏や菩薩が、法を説いて、
人々を迷いの苦痛から救い
出し、悟りの境地に導くこと。
人間が、生きていく中での
煩悩や苦悩、すべては、
自分の心の問題として、とらえ必死に自分の使命を追いかけ、自分で
しかできない、『天命』を探しあて、世のため、人のために生きる。
死んだつもりで、一からスタートする。
牛と人、心と体が、一体になった時に、スタートする。
やっぱり、深い!
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- ニュース
- 投稿日:2013/12/28
「十牛図」 前半
しまった。これは、三年前に購入し
た本。新井満さんの『十牛図』
ふーーんと言う感じで、読んでい
たのが、この三年で、少しは
成長したのか、味わいながら、
読めるようになった。
『十牛図』は、十枚の牛の絵で、
牛を探し求めて世界の果てまで
旅をして、ついに見つけ出して、
格闘し、つかまえて、飼い馴らし、
ふるさとの家に連れて帰る
でも、実は、この『牛』は、
『自分自身の心』
のこと。本当の心、
本来の自分を牛にたとえた
物語。
第一図 尋牛(じんぎゅう)
牛を捜しにゆく
五欲の情欲に、
六塵(ろくじん)
色・声・香・味・触・法(意識)
の六のこだわり、人々の心
を汚し、煩悩を引き起こす
ので、塵(ちり)とよばれる。
まさに、神道では、この祓い
を「六根清浄大祓」の祝詞
で浄化するのである。
第二図 見跡(けんせき)
牛の足跡を見つける
牛を見つけるには、香草を
手掛かりにする。
香草とは、万巻の経典と
語録のこと。
心が迷い彷徨っている時は
先哲の教えを聞く。
そこに足跡がある、ヒントが、
隠されているのである。
第三図 見牛(けんぎゅう)
牛を見つける
六根を浄化させて、塵をとり
素直になり見つけることができた。
第四図 得牛(とくぎゅう)
牛をつかまえる
「大死一番」で捕まえる。
今までの自分を投げすて、
一度死んだつもりになって
大いに奮起すること。
第五図 牧牛(ぼくぎゅう)
牛を飼い馴らす
鞭撻(べんたつ)が、必要で
ある。
様々な人に出会い、経験し
鞭撻をいただく、これは、
むちうつという意味から転じて
いましめ励ましてもらうこと。
ながながいブログになって
しまったので、2回に分けます。
一図から五図まで、
自分という、心の牛を探し
追跡し、見つけ出し、
命がけで獲得し、
むちうちしながら、
飼い馴らす。
自分と言う人間をどのように
成長させていくかも、自分
次第なのだろう。
つづきは、あした。
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- ニュース
- 投稿日:2013/12/27
「人生は心一つの置きどころ」
本や書類を一掃していると、時々
手を止めて、ここ三年間の自分
向き合う。
こんな本を読んでいた、こんな
メモをしていた、こんな記事を
切り取っていた。 その記録の
中に、『いかなる事態に出会って
も心を常にプラスの方に転じる
ことが、人生において大事。』
しばしよむ。二年前よりもまた、
深く心に沁みとおる。
松下幸之助
「人間は若い時の心がけによって、ずいぶんと差が出るものだ」
稲盛和夫
「仕事を好きになったこと、会社を好きになったこと、そのことによって
今日の私がある」
講談社・野間清治
「万事万象、わが一心に存する。わが一心によってわが境遇ができるのだ。
すべては私の影だ。心が歪めば世の中も歪むのだ。わが一心によって、
世の中がよくも悪くも、楽しくも辛くもなるのだ」
弘法大師空海
「教法は本より差がうことなし。牛と蛇との飲水(おんすい)の如し。
牛は飲めば蘇乳(そにゅう)となり、蛇は飲めば毒莿(どくし)となる」
同じ水を飲んでも牛はそれを栄養のある乳にし、蛇はそれを毒にしてしまう。
尊い教えも聞く人によってまったく違ったものになる、ということである。
同じ状況を豊かな実りにする人もいれば、
不平不満の種にする人もいる。
すべては心一つの置きどころである。
「ある人問う、人艱難(かんなん)に遭う、これ不幸なる事か。
曰く(いわく)、艱難はまたこれ事を経ざる人の良薬なり。心を明らかにし、
性を練り、変に通じ、権に達する。まさにこの処にあって力を得」
苦しみや困難はまだ人生経験を経ていない人
には、性質を練り、正しい権(はか)りごとが
できる実力を養う最高の場だ、というのである。
艱難(かんなん)もまた心一つの置きどころである。
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- 投稿日:2013/12/26
「いつまでも残るもの」
その人の生き様=精神
なのだと思う。 そんな人間の
一人に、二宮尊徳がいる。
昔小学校の校庭の片隅にあった
マキを背にしょって、本を読んで
いる銅像が、よくあり、子供
ながら、「誰かな?」と思って
母に尋ねた事を思い出す。
「二宮尊徳さんやで、すごい
努力家な人で、苦労して勉強
して、偉くなった人やで、、」
と教えてもらったことがある。
この45歳にして、最近読んだ
本に二宮尊徳の歌があり、
感動したので、調べてみた。
山寺の 鐘つく僧は 見えねども
遠くから、鐘の鳴る音が聞こえてくるなーー、ああ、もう5時かーー帰ろう。
と里人は、思う。誰がこの鐘を打ってくれているか知らないが、ありがたいなー
と山の四方八方に聞こえる鐘の音は、人々の為になっている。
貧しい農家の息子として生まれた二宮金次郎(尊徳)は、今の神奈川県の
小田原市に生まれる。親を幼くして亡くし、遠くの山にまで蒔きを拾いにいき
それを売り、また、川の氾濫する堤防を作りと努力して仕事をしながらも
勉強(四書五経)を独学した子供時代。やがて、認められて、藩の立て直し
農村の経営方法などを藩に提案して、藩財政を立て直すようになる。
有名な「報徳仕法」がある。
報徳仕法は、「勤労」、「分度」、「推譲(すいじょう)」の三つの原理に基づいている。
「勤労」とは、収入を得るための生活の基本である。漫然と働くのではなく、知恵を
絞って勤労を最大限に効率化するための自助努力を金次郎は求めた。
「分度」とは、自分の収入を知り、その枠内で一定の余剰を残し、それに応じた
支出の限度額を設定することだ。つまり、藩や旗本の領地における分度の設定とは
「上納米[年貢)限度額の設定」と「支出額の設定」をすることである。まず上納米の
限度額は、過去の実収入の平均を割出、設定する必要がある。そして支出額は、
算出された収入額に従い、財政に余剰を残せるように設定しなくてはならないと
金次郎は説いた。
また分度を設定し、倹約に努めることで生み出そうとしたのが余剰だ。これは、
最後の原理である推譲と不可分の関係にある。その余剰を翌年のために蓄えたり
子孫や他人に譲ることを「推譲」と言い表し、仕法の根幹を成す。
「国が衰弱する原因は、藩政の基本である分度が明らかではないため、出費に
節度がなく、領民から際限なく取り立て、知らず知らずのうちに過重な租税に
よって領民を窮乏させていることにある。」
まさに、現代にも通じる手法、PDCA(プラン、ドウ、シーアクト)のサイクルに
なって、藩の財政をアップさせ、農村のやるきを出させ、飢饉を回避し、
農民を救った。
我々は、勉強、努力は、まだまだ必要である。
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- ニュース
- 投稿日:2013/12/25
生きると言う事の大切さ
たいと思っていた、『永遠の0』を見
に行きました。やはり、泣きました、
家に帰り、今朝まで、ずーっと
心に響いています。
戦時中、なかなか言葉にして言え
なかった、生きて帰るということ、
映画のシーンにおいては、
特攻が決まり、明日特攻に行く
前に、主人公達が、川に足を入れ
今まで、ふつうに、何も思わなかった
足を川に入れた時の水の冷たさ
鳥のさえずりや虫の声
草や木を見ること、これらすべて
が、何か愛おしく思います。
と言う言葉に、私の心は、震えました。
このセリフが頭から離れなかった。
あの思い、特攻=死、それを目前にして
「生きるということ」が、いかに大切なのかを教えてくれる言葉でした。
国のため、自分たちの国家、家族、大事な妻、子供を守るためと
思い、特攻に行かれた人。
森信三先生の『人生二度なし』と言う言葉、「この人生の最大事実」に
対して、無関心であったように、再び思いました。
もっと真剣に生きよう、もっともっと大切に生きようと思いました。
また、森先生の言葉を借りるとしたら、私たちは、自分の好きな物、
たとえば菓子とか果物などを貰ったら、それのなくなるのが、
いかにも惜しいと思い、惜しみ惜しみ食べる。
なのに、最も惜しまねばならない自分の生命に対しては、それほど
惜しまず、あと何年生きられるのかも考えて事がない。
また、一日の遠足についてさえ、いろいろとプランを立て、種々の
調査をする。なのに、二度とない人生については、人々は果たして
どれほどの調査と研究とをしているのか。日一日と減っていくのに、
45歳の私は、人生の二分の一は、終わったのに、もっと計画を
立てて生きないといけない。
自分が天よりうけた力を、この肉体的生命
の許される限り、十分に実現して人々のた
めに尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた
後にも、なおその精神がこの国土に残って、
後にくる人々の心に同様な自覚の火を点ず
ることがあるように、生きる。
その人の生前における真実の深さに比例して、
その人の精神は死後にも残る。
永遠のゼロは、本当に大切な映画と思う。
戦争物と言うよりも、明治維新後、世界を相手に、
主に、西欧の列強が、アジアを植民地化していく
中、日本を植民地化から守ってくれた日本の
先人の事を私たちは忘れてはならない。
戦争、人間同士が殺し合うのは、絶対にダメで
ある。しかしこの平和の時代において、いかに
平和に感謝をして、大切な人生、命、
生きることを後からくる人々に伝えるかが、
我々40代の大切な仕事である。
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- ニュース
- 投稿日:2013/12/24
十二月晦日の「大祓」
先日の東国三社の香取神宮や
代々木八幡宮では、ご社殿の前に
大祓『茅の輪』が用意されていた。
「大祓」の神事は、毎年六月と十二月
の晦日(みそか:月の末の日)に行わ
れた。大祓の『日本書紀』に見える最
初は、天武天皇五年(676年)八月
辛亥(十六日)の条である。
ここで大祓の基になった祓(はらへ)
について一見しておく必要がある。
祓の原義は、罪を犯した者に対して、
その罪に相応する物品(祓へつ物)
を出させて、犯した罪を解除してやる
日本古代の社会的行事であった。
この祓に、新しい精神を与えて新生
させ、国家的な行事に高めたのが、
天武天皇朝の大解除(大祓)であった。
天武朝の大祓の精神は、大祓によっ
て国中のあらゆる罪を一掃して、新し
い国家社会を建設しようとするところ
にあった。大祓の創始は、天武朝に
おける神衹祭祀の政策の一環をなす
ものであった。大祓が国を挙げての
大規模な行事であったことは、天武
五年八月の大解除に、国造や郡司が
祓柱を出すだけではなく、戸毎に麻一条を出すところにもよく表れている。
これは、全国民が大祓に参加することを示している。
かくして大祓によって、国中のあらゆる罪が祓われるのである。
天武天皇十四年(685年)正月丁卯(二十一日)に、爵位の名号が改められて、
明・浄・正・直・勤・務・追・進の八語が柱として立てられた。
これは、当時の日本人に求められた国民道徳の標語とも言うべきもので、
それは大祓いの目標とする精神と相通ずるのである。すなわち、大祓により
あらゆる罪が祓われて、人々が、明き浄き正しき直き心となり、これからの仕事
に勤しみ務め追い進むべきことが、指示されている。
この精神は、『続日本紀宣命』の「明き浄き直き誠の心」へと続いて行く。
<最後に宣伝>
新年平成26年1月26日日曜日に祝詞『大祓詞』の勉強会を行います。
是非、ご参加下さい! 詳しくは、こちらをご覧ください!
宜しくお願いいたします。
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- ニュース
- 投稿日:2013/12/23
鹿島神宮と子供の成長
東国三社神社ツアーに参加しました。
東国三社(鹿島神宮、香取神宮
息栖神社)、三社はいずれも関東地
方東部の利根川下流域に鎮座する
神社。古代、この付近には「香取海
(かとりのうみ)」という内海が広がっ
ていた。これら三社の鎮座位置はそ
の入り口にあたり、鹿島社・香取社は
大和朝廷の東国開拓の拠点であった。
また、三社はいずれも『古事記』
『日本書紀』における葦原中国平定
に関する神(建御雷神、経津主神、
天鳥船神)を祀っている。うち息栖神
社主祭神・岐神は、記紀に記載はな
いが東国に導いたと伝えられる神で
あり、同社では天鳥船神も配祀する。
江戸時代には「下三宮参り」と称して
関東以北の人が伊勢神宮参拝後に
これら三社を巡拝する慣習があった。
この三社うち、平成十二年、今から
13年前に、鹿島神宮にのみ参拝を
させて頂いており、この神社の参道
で、始めて長男が、外で三歩以上
歩いた所だったので、印象が深く。
そこに、当日の写真を持って行き、
家族で写真を撮ろう!と言う気持ち
もあり、家族全員で参加した。
13年前に、よちよち歩きの長男が、
今では家内と背を同じくとし、
次男、三男も授かり、本当に感謝
ありがたい気持ちに一杯となりま
した。
三社をめぐり、どの社も鳥居が、
まっすぐと海へと続き、海から
神様が上がってこられるのを
感じる。
これは、宮崎の日南海岸の海岸沿いにおいても、出雲大社の西にある海岸で、国譲り、
国引きの神話で知られる浜。 長浜海岸(いなさの浜)、そして伊勢の二見ケ浦の海岸。
山、海、太陽、川、すべてに神様がいらっしゃり、我々は生かされていることに感謝
します。今日は、冬至のまた三連休の間の日曜日に家族で千葉の東国三社を
お参りできたこと、その間の会社のスタッフに感謝します。